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文久3年8月27日(1863年10月9日)
【京】京都守護職、市民安堵の令
【長州】七卿一行、三田尻到着

【京】文久3年8月27日、京都守護職松平容保は、町奉行に命じて市民に安堵するようにとの令を掲示させました。

「近来、藩臣浮浪の徒、堂上方へ立入り、正義の士と唱え、種々入説致し候より、叡慮貫徹致さざる事往々之有り。随て不心得の者共横行致し、無辜の者を残害し、或は火を放て家屋敷を毀(こぼ)ち、或は張り紙を致し、町方を騒がし、遂に容易ならぬ巧みに及び候聞えも之有り、言語同断の義、深く叡慮悩まされ、右等の廉御改革遊ばされ、取締り方、急度仰せ付け、御吟味も之有り候間、一同安心致すべく候。猶又、今度叡慮の有難きを知らず、往々心得違いの者之有り、公に申し出も之無く、無根の説を申し立て、人心の疑惑を生じ候義、甚だ如何に候。若し又存意之有り候はば、忌憚無く申し出づべく候。兼て松平肥後守(=容保)殿御沙汰も之有り候間、心得違い之無き様致すべく候。右の趣、洛中洛外洩れざる様、相触る者也」(出所:『七年史』引用のものを読み下しbyヒロ。適宜平かな、当用漢字に変換しています)

<ヒロ註>
火を放て家屋敷を毀ち(=壊し)・・・政変前日の大和屋放火事件を想起させる文だと思います。すでに壬生浪士のしわざだという風説がありましたが、配下の壬生浪士と放火事件はまるで無関係のように書かれています。この、放火事件を尊攘浪士のしわざとする見方は後年の会津藩の記録にもうけつがれており、いわば会津藩の公式見解のようになっています。

兼て松平肥後守(=容保)殿御沙汰・・・参照:文久3年2月4日−守護職松平容保、浪士対策として前関白の近衛忠照に言路洞開を建白

参考:『京都守護職始末』・『七年史』(2001.10.9)
関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」■守護職日誌文久3

■七卿の都落ち
【長】文久3年8月27日、政変で京都から西走した尊攘急進派七卿一行が三田尻に到着しました(二卿は前日到着)。最初、長州藩は朝槌を受けた七卿を滞在させることに消極的で、長州に向かう途中の七卿を大坂藩邸に送還し、朝廷に対して帰京を周旋するほうがよいとの考えでしたが、彼らがすでに到着したため、どうすることもできず、藩士を警衛につけました。

関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」■長州藩日誌文久3
参考:『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三(2001.10.8)

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